造幣局の「桜の通り抜け」、天神祭りの花火で知られる大川沿い。江戸時代、この川べりは大阪でいちばんの花見の場所だった。
錦絵に描かれた「浪花桜宮之図」を見ると、満開の桜の下を着飾った人々が歩き、川には屋形船が連なっている。対岸へ渡る小舟も行き交っていた。花見の季節には見物客を乗せた船が引きも切らなかった。


源八橋のたもと、かつて渡し場があった場所に小さな石碑が立っている。

渡しが「源八」の名を持つのは、江戸初期にこの場所で渡し船を営んでいた人物の名に由来する。与謝蕪村が「源八をわたりて梅のあるじかな」と詠んだのも、この渡し場のことだ。
昭和初期に橋が架けられるまでの長い間、人々はここから渡し船を使っていた。

明治4年(1871年)、このあたりの様子が一変する。
明治政府が、近代国家の通貨製造のための貨幣工場を設立。「造幣寮(現在の造幣局)」である。
アイルランド出身の外国人建築家トーマス・ウォートルスの設計で、欧米から招いた外国人技師とともに西洋式の設備を整え、貨幣の鋳造を開始。以降、近代経済の根幹となる貨幣を造り続けてきた。
当時描かれた錦絵には、煙突がそびえる工場群と、黒煙を上げながら川を行き交う蒸気船が描かれている。

「造幣寮」の創業時は大川沿いの広大な敷地を誇っていた。
明治中期に北半分(国道1号線以北)を宮内省へ移管して縮小。現在の造幣局の敷地はその南半分にあたる。



明治5年(1872年)、明治天皇が造幣寮に行幸した時に宿泊し、自ら「泉布観(せんぷかん)」と命名した建物が現在も残っている。その後、皇族や外国の要人を迎える大阪の迎賓館として重要な役割を果たした。
ベランダに花崗岩の列柱を巡らせたヴェランダ・コロニアル様式の2階建て洋館。ターコイズの鎧戸、ピンクの手すり。


その隣に、柵に囲まれた小さなレンガの構造物がある。
造幣寮に雇われた外国人技師たちが暮らす宿舎に附属していた建物だ。かつて同じ建物が北側にもあったが、大正時代の道路工事で取り壊され、これだけが残った。
フランス積みと呼ばれる明治期特有の工法で積まれたレンガが、外から持ち込まれた技術の痕跡をとどめている。

昭和初期に、鋳造工場の正面玄関を移築する形で明治天皇記念館が建てられた。その玄関は、泉布観と同じウォートルスが設計したものだ。6本のトスカーナ式石柱、アーチ窓、三角形の破風。
戦後に「桜宮公会堂」となり、図書館や市民ギャラリーとして長年使われてきたが、平成19年(2007年)に閉館。現在はフレンチレストランと結婚式場として利用されている。


こうして明治政府が建てた建物や痕跡が、今もこの場所に残っている。
いっぽう造幣寮の北側の敷地は、明治29年(1896年)に宮内省から三菱合資会社(現在の三菱マテリアル)に払い下げられた。
金や銀などの製錬を行う「大阪製錬所」として、その後の日本の近代産業を支えてきた。
大正時代に発行された大阪市パノラマ地図にも「三菱精錬所」の文字と煙突の煙が描かれている。

平成元年(1989年)、製錬所が閉炉となり、この場所はふたたび一変する。
その跡地に「OAP」(大阪アメニティパーク)が作られた。コンセプトは「産業の街から快適な都市空間へ」。高層オフィスにマンション、そして水辺の遊歩道。正面玄関前には、製錬所時代の石造りの門柱が今も残っている。


平成8年(1996年)OAPの隣接地に「帝国ホテル大阪」が開業した。明治期に渋沢栄一などの財界人によって設立され、外国の要人を迎えてきた高級ホテルだ。
大阪の中心地から少し外れたこの場所で、その日本を代表するホテルが、かつて泉布観が担った大阪の迎賓館としての役割を、今も引き継いでいる。

江戸の花見客でにぎわった川べりは、明治以降、日本の近代化を牽引する工場地帯へと変わった。日々、金銀銅を製錬する炉が燃え、高度経済成長を支えるエネルギーがこの川沿いに満ちていた。
その役目を終えた街は、今また顔を変えている。整備された水辺の遊歩道には、桜の季節には花見客が、夏には天神祭りの花火を眺める人々が集う。大川の川べりはふたたび、人々の集まる場所になった。
普段は静かなこの街の時代の変遷を感じながら、まちあるきしてみてほしい。

【アクセス】JR大阪環状線「桜ノ宮駅」/Osaka Metro谷町線「南森町駅」下車徒歩約15分


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