大阪人にとって、大阪城は誇りだ。
広大な敷地に梅や桜が彩る公園、堀と巨大な石垣に囲まれ、そびえる天守閣。大阪の街のど真ん中に「太閤さんの大阪城」があることを、大阪に生まれた人は誇りに思っている。

だがあの白い天守閣は、実は豊臣秀吉が建てた城ではない。城が建つあの場所も、いろんな時代の拠点となってきた。
その歴史を追っていく。

石山本願寺——信長でさえ10年かかった、難攻不落の宗教都市
上町(うえまち)台地の北端。三方を川と湿地に囲まれた、南からしか攻められない天然の要害。淀川を上れば京都に続き、海に出れば瀬戸内海につながる。
戦国の世が始まった頃の1496年、浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ)がこの地に草庵を結んだ。やがてそこは「石山本願寺」と呼ばれる巨大な宗教都市に育っていく。堀と土塁で囲まれ、武装した門徒が守り、門前には商人が集まった。
全国に広がった門徒衆は、各地で領主に抵抗した。一向一揆だ。天下統一を目指す織田信長と対立し、1570年、戦いが始まり10年続いた。

1580年、3代後の法主・顕如(けんにょ)は講和を受け入れ、ここから去る。その直後に出火。火は二日二夜燃え続け、何もかも燃え落ちた。失火か放火か、今も定かではない。
3年後、豊臣秀吉がその跡地に城を築く。

秀吉の大坂城——天下統一を世に知らしめた、黒漆・金箔の天守
豊臣秀吉は天下統一を世に知らしめる城を築いた。1583年に着工し、わずか2年で天守が完成。
外壁は黒漆塗り、瓦は金箔張り。黒を背景に金が映える5重6階の天守。「世界に並ぶものなし」とまで称された城だった。

秀吉の死後、天下の覇権をめぐる関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康が勝利する。
豊臣秀頼は大坂城に残されたまま、孤立した。1614年の大坂冬の陣で堀を埋められ、翌年の大坂夏の陣で落城。秀頼と淀殿は自刃し、豊臣宗家は滅んだ。

徳川の大坂城——秀吉の痕跡を消し去った、服従の証しの築城
豊臣宗家を滅ぼした徳川幕府は、豊臣の城を地上から抹消した。
焼け跡に最大10メートルにもなる土を盛り、秀吉の時代の石垣はすべて地中に埋める。その上に、全国の大名を動員して新たな城を築いた。
巨石を運ばせ、高い石垣を積み上げる。費用も労力もすべて大名持ち。大名の財力を削ぎ、徳川への服従を証明させるための工事でもあった。

緩やかな曲線を描きながら上へ向かって急勾配になっていく石垣。美しいだけでなく敵が登りにくい構造になっている。

各大名家の紋や印が刻まれた石が残っている。

今、大阪城で目にする石垣・堀・櫓などは、この時代に徳川幕府によって建てられたものだ。地上に豊臣大坂城の遺構は一切残っていない。
完成した城は幕府が直接管理し、西国大名を監視する拠点となった。
しかし、完成からわずか39年後、落雷により天守閣が焼失する。以降、昭和の初めまで260年以上再建されることなく、天守台だけの姿だった。

太閤さんと大阪人——なぜ秀吉が好きなのか

天下が徳川の世になっても、大坂の庶民は豊臣秀吉を「太閤さん」と気安く呼んで愛し続けた。
百姓の出から天下人になった英雄であり、大坂のまちを作った恩人である。秀吉は大坂城を築くだけでなく、全国から商人や大名を呼び寄せ、「天下の台所」と呼ばれる商都・大坂の基礎を作った。
江戸時代中期、大坂で生まれた読本『絵本太閤記』が全国的な大ベストセラーになり、歌舞伎や浄瑠璃の演目にもなった。
徳川幕府が発禁処分にしたが、大坂庶民の秀吉びいきは消えなかった。江戸(東京)への対抗意識は、現代の大阪人にもしっかり受け継がれている。

近代・昭和——戦時を生き延びたコンクリートの天守
明治元年(1868年)、戊辰戦争の混乱の中で大坂城内が炎上し、多くの建物が失われた。その後、大阪城周辺は陸軍に接収され、城郭全体が軍の管理地となる。
戦前に撮影された空中写真では、砲兵工廠(ほうへいこうしょう)など軍の施設のエリアが黒く塗りつぶされている。

現在も京橋口の入口付近に、当時の建物の外観を見ることができる。大正8年(1919年)築の煉瓦造りの化学分析場だ。
蔦に覆われ、窓は板で塞がれたままで、観光客のほとんどが気づかずに通り過ぎる場所に隠れるようにひっそりと建っている。



大正14年(1925年)、大阪市は人口で東京を抜き日本一の都市となった。その記念に開かれた「大大阪記念博覧会」で、天守台に建てた仮設施設「豊公館」に秀吉の遺品を並べると、約1ヶ月半で70万人が訪れた。


その熱望を受けた大阪市長・關一(せきはじめ)が天守閣の再建を提案。市民からの寄付を募ると半年で150万円(現在の価値で数十億円相当)が集まった。
關市長は陸軍に「新しい司令部庁舎を建てる代わりに天守閣の再建を認めてほしい」と交渉し、了承を得た。
集まった150万円のうち、天守閣の建設費は47万円。80万円は陸軍第四師団司令部庁舎の建設費に充てられた。市民の寄付の半分以上が、軍の建物に使われた形だ。
その建物は今もカフェやレストランとして利用されている。

昭和6年(1931年)、天守閣が完成。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上8階建て。
大阪に本社を置いていた大林組が施工。当時の社長が「大阪の市民を挙げての大事業である。大阪の業者がやらなければやる者はいない」と、格安の価格で工事を引き受け、期日通りに完成させた。

秀吉ゆかりの資料を展示する郷土歴史館として公開され、市民がこぞって訪れた。しかし昭和17年(1942年)、戦況の悪化により閉鎖され、公園内への一般市民の立ち入りも禁止された。
昭和20年(1945年)8月14日、大阪大空襲。
砲兵工廠が壊滅。天守閣付近にも1トン爆弾が落ちた。衝撃で石垣は大きくずれたが、天守閣本体には影響がなかった。鉄骨鉄筋コンクリートの城だったおかげで生き延びたのだ。

翌日、終戦。廃墟となった砲兵工廠跡地は不発弾が多いという理由で長年放置された。昭和30年代(1955〜1959年)、夜になると川を越えて廃墟に忍び込み、鉄くずを持ち出して売る人々がいた。新聞は彼らを「アパッチ族」と書き立てた。開高健の小説『日本三文オペラ』はその攻防を描いたものだ。その後も、多くのホームレスが暮らし、青テントが並んでいた。

平成の大改修で天守閣は昭和6年(1931年)当時の姿に甦り、国の登録有形文化財となった。現在は、整備された広大な公園に人々が集まり、堀と石垣、そして美しい天守閣がそびえる。

石垣は徳川が積んだもの。天守閣は昭和のコンクリート造り。それでも、「大坂城は太閤さんの城やで」と誇るところが大阪人の気質だ。
堀沿いを歩き、石垣を見上げ、天守閣を仰ぐ。500年の歴史が重なったこの場所を、ぜひ自分の足で歩いてみてほしい。
【アクセス】JR大阪環状線「大阪城公園」「森ノ宮」下車すぐ/Osaka Metro谷町線「谷町四丁目」「天満橋」下車徒歩約10分


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